認知症になってしまった父を受け入れること、
母にとってはこれがなかなか出来ませんでした。
父が医師からはっきりと【認知症】です、と言われるまではもちろん、
宣告されるまでにも明らかに ”行動や言動がおかしい” という所が
多々ありました。
目の前の携帯が鳴っているのに、
遠く離れた自宅固定電話が鳴っている、と席を立ったり
夜中にお仏壇の中に見知らぬ女性が入っていてこっちを見てくる、
と言ったり
トイレに行こうとして、どう見ても人が入れる幅のない
納戸のドアーを開けたり
父が1人で自宅にいるとき、
「(僕の名前)家族がいま来ているが、何もしゃべらん、
あいつらは一体何のつもりや」
と怒りながら母に電話があったりと
明らかにおかしかったんです。
それでも断固として認めることが出来なかった母。
「お母さん、やっぱ親父少しおかしくなっていると思うんやけど」
と言っても
「いやいや、ちょっと間違っただけちゃう?」とか
「うっかりやろ、ははは」
と言って、話をそらしていました。
僕たち家族にそう言っていましたが、「何かの間違いだ」と
自分に言い聞かせていたのだと思います。
そしてようやく母が父の現状を受け入れると、すると途端に
【自分がやるべきこと】【自分にはできないこと】が見えてきたのでしょう。
要は先の予測を立てることが出来るようになり、母を中心に家族がやっと前に
進み出せた、という事がありました。
(↑見通しがたつと景色が開けます)
こんな話は極端な例かも知れませんが
人が生きていく中で、このような
【事実をそのまま受け入れる】という事は、
思っているよりも結構難しかったりします。
あらゆるものごとの初動【事実をそのまま受け入れる】が
大なり小なり、そのものごとの最大の山場と言えば言い過ぎかもしれませんが、
それくらい大事だと僕は思っています。
似たこととして、付き合っていた大好きな彼女に振られてしまって
その事 (振られたことや嫌われた事実) が忘れられず、事実を受け入れられない
ために、他の人を好きになったり、日常生活もままならない、みたいな事も
ありました。(過去の自分です、はは・・)
自分にとって不都合な事をありのまま受け入れるのは、そりゃあ苦しいです。
受け入れると、それはもう【紛れもない事実】となりますから。
苦しいけど、認めたくないけど、でも・・・
受け入れて初めて、やっと1歩踏み出せるのも
紛れもない事実だと思います。
【事実をそのまま受け入れる】ことで前進!!
これは初めて会った人に対しても同じです。
その人を良いも悪いも素直にありのまま、まずは受け入れるんですね。
それから始まる人間関係・・・楽です。本当にラクです。お互いに。
これまでずっと自分で試してきたので、まず間違いないと言えます。
要するに何も僕が言わなくても、初めが肝心、という昔から言われてきた言葉に
集約されるという話です。
やはり先人の知恵は大切ですね。
今も残っている言葉の有難さを噛みしめながら、今日はこの辺で。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました。