仕事ができるから、自分には価値がある
家事をテキパキこなせるから、自分には存在意義がある
しんどいけど無理してでも会社に行く自分やから、価値がある
このように「〜できるから自分には価値がある」と思っていると、その「できる事」が
出来なくなってしまった時に、とてつもないダメージを受けてしまいます。
今後、日本でも少子高齢化がドンドン進んでいく中で、自分も高齢者になったときに、
今出来ている事が 100% 出来ると言える人なんてまずいないでしょう。
昨年に亡くなった僕の父が、まさにこの考え方だったように思います。
【男は仕事をやってナンボや】【男から仕事を取ったら何にも残らん】
そういつも僕や兄に言いながら、結局70歳を過ぎるまで働いていました。
父は運送会社に勤めていましたので朝3時とか早朝出勤するようなことも多く、
また小さな会社でしたので時代の波もあり何度も倒産しかけたりと、波乱万丈の
会社人生だったようです。でもしきりに、「俺はトラック運転のプロや」と
いつも嬉しそうに話していたので、そんな荒波の中においても充実していた、
というのも事実だったようにも感じます。
そんなイキイキしていた現役時代とは対照的に、退職してからは一気に老け込み、
旅行などで外に出ることもなく、ただひたすら家でゴロゴロ、過食、偏食と、
心に穴が空いているのはもう誰から見ても明らかでした。
そんな生活をしていたものですから心筋梗塞になり、ますます外出しなくなり、
そして認知症とパーキンソン病を併発し、入退院を繰り返したあと
昨年9月に亡くなってしまいました。
その後、亡くなった後に父の荷物を整理しているとメモ書きが出てきたのですが…
そこには…
(退職後のまだ元気な頃の日付で)
「毎日なんだかむなしい、もういつ死んでもいい」
と書かれていました。
これを見て、やはり父は「仕事に縛られた価値観」やったのかなと
何だか悲しくなってしまって泣いてしまったのを覚えています。
※ 父の真意は分かりませんが、トータルで見て僕はこのように感じたという意味です。
一方で亡くなる少し前、父は最終的に病院のベッドの上で、何も飲み食いできず、
話すこともできず、動けないようになり、面会していても目で追ってくるくらいしか
できないようになったのですが、そんなとき、全く何もできない父ではありますが、
僕にとって、家族にとって
「何もできなくても、(父は)居てくれるだけでうれしい、
息をしてくれているだけで安心する」
という気持ちがある事に、僕は気付くことができました。
父が全く何も出来なくても生きていてくれるだけで、ただ居るというだけで、
何も意識はありませんでしたが僕は安心し、日々を送ることができていたんやなあと
その時になって初めて実感しました。
僕にとって父は「ただいてくれるだけで価値のある存在」だったし、
今も僕の心の中で居てくれているので、ただそれだけで
また前に進めるような気がしています。
これと同じような事が、家族以外の人においても言えると思います。
例えば…
「今日はあいつに会って、あの話をしてやろう、笑うやろうなあ」とか思うので、
会社に行くのがしんどい日でも多少無理してでも出勤する、とか
「この前思い付いたアイデアを上司に言ってみよう、驚くかなあー」と思うので、
アイデアをよりブラッシュアップして完成度を上げる、とか
これらは全部、思った人にとって、相手は何もしていないのに、その瞬間
ただいてくれるだけで価値があるのだと思うのです。
人間の価値は、何が出来るか、では決まるんじゃなくて
ありのままでいるだけで価値がある
そう思いたいという話です。
そう思えたら、退職したって、病気になって何もできなくなったって、
元から特別何もできなくたって、誰かにとって自分はありのままいるだけで価値がある、
とそう思えたら、
誰かと自分を比較することもなく
よし今日も1日生きるぞ!とか
今の自分にやれることは何かないか?とか
昨日よりも少し前に進もうかなと思えるかもしれません。